バカいってる

これはエポックだ

生きていました -違和感日記④-

6/17に自分にとってかなり大きな用事のためにほぼ3ヶ月強ぶりに電車に乗ったせいかことごとく調子をおとし、ほぼ1ヶ月間ご飯がぼろぼろになった。逆に言えばその前の1ヶ月間は私の基準では珍しくご飯を用意できていた。

「ご飯を規則正しく食べる」までには、自分が食べたいものを想定し、それを食べるために食材を計画的に購入しそしてそれを形にし、その過程まで食欲を調節し、そして次やりやすいように片付けなどの準備を欠かさないということが必要なのだが、それがあれよあれよと出来なくなりいつの間にか1ヶ月が経ってしまった。ちょうどブログを見返したら6/12が最終更新になっており、自分の生活の不調による空白期間がブログを見ると明白すぎる程反映されていて思わず笑ってしまった。ただ、なんとか生きていたなぁという実感が湧いてくる。

さてそんな状態であったが、きちんとハマるものにはハマった。この1ヶ月を振り返ると2つのものが頭に浮かんでくる。

1つは、Niziプロジェクトだ。

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このパフォーマンスのマユカちゃんは何度も見返すほど好きです

私の周辺でも「ねぇねぇNiziプロジェクトって知ってる?」という声がちらほら聞こえており、たとえtwitterをほとんど見なくても伝わってくる影響力の高さに時々背中をのけぞらしていた。K-POPを好きになったときは田舎に住んでいたということもあり、私の中ではK-POPは知る人ぞ知る秘密の趣味という認識だったため少し優越感に浸れる趣味であった。(実はそうではなかったことが後で発覚、結構メジャーだった)なのである種のギャップにびびっているのだ。

番組自体は楽しく見て、サバイバル番組の楽しさもまた新しく発見することが出来たり、サバイバル番組を見ていた自分の視点の変化も気づくことができたのも収穫だった。

サバイバルオーディションについての備忘録も書こうと思っているが、未だ下書き保存されたままだ。最初書きたいと構想が浮かんだときは良いと思うのだが書けば書くほど減点方式のように減点されていき、最終的には自分の書いた文がもう既に何百回と手垢が付けられた意見のように思えて、下書き保存されたファイルを見るたびに自分が平凡であると突きつけられ、書ききれていない。

 

そしてもう一つ。6/17以降も何度か用事があり電車に乗る機会が少し増えたことで、本屋に立ち寄る回数が増えた。それに伴い買った本の数も目に見えるほど増えた。

久々にある古本屋に立ち寄ったら「3月のライオン」がほぼ全巻110円均一コーナーに置いてあった。3月のライオンは1度全巻手に入れたのだが、一度手放していた。手放したのにはそれなりの理由があったので買い戻しには決断を要したが結局何巻か選抜して購入した。

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しかし3月のライオン、恐るべし。

読み直したら次の日には何回目かの将棋ブームが私の中で巻きおこった。

(私の将棋ブームはだいたい3月のライオンを一気に読み直した回数に比例する)

私の趣味は一気に熱したあと、すぐ冷め、そしてまたどこかで再燃する中で知識がアップデートされていくという螺旋階段タイプである。今回までに羽生世代と呼ばれる羽生善治永世七冠や、森内俊之九段といった既に名声が突出・確定している棋士はある程度知っていたがここ一週間で今のトップ棋士のプロフィールを把握するようにまでになった。

この螺旋階段タイプのいいところは、最初好きになった時よくわからず呪文のようなものを「ブラックボックス」として仕込んでおき、次好きになったときに時間を置いて開けられる点だ。

色々語りたいことはあるがこの先は雑談をすっ飛ばし、人生論を語りだすという高低差ふっとばしの文章になることは目に見えている(そしてめんどくさくて最後まで書ききれない)ので自重しておく。

 

さて本屋めぐりを少し再開したことにより、収まってホッとしていた本の物欲は、今までの期間などまるでなかったかのように復活した。ずっとほしいと思っていた本が自分の手元に来る喜びは何事にも代えがたいのだと再認識した。

 

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本屋巡りで手に入れた本たち

今まで「違和感日記」を過去3回書いてきたが、今回は「違和感」が抜けた本来の日常の記録という日記の本来の姿に戻った。

いくら外に出る機会が増えようが、私の今置かれている環境は家にいる時間がほとんどで、人にも会わず、twitterにも意図的に触らなくなったせいで世の中の動きにとても鈍感になった。「なった」というよりかは意識的に距離を取っている。なので世の中の違和感も勿論感じるが機会はとても減ったし、違和感の感じ方も瞬間的ではなく長い時間を要する形に変化した。

「違和感日記」と名付け書き始めたときは、"自分の中で何度も思っていたことが形になった、発見した"という喜びがあり、そしてそれを続ける先の未来にある種の希望を見出した感情は強烈に覚えているので、このように早々に形が変化していくことには強い抵抗を感じる。

しかし形に出来ない違和感が消えたわけではないので、また違った形で「違和感日記」をかけたらいいなと思っている。