違和感日記⑥ ー人と住むー
梅雨が開けた途端に一気に暑さと豪雨が繰り返す季節になった。
異常気象がまるで「夏」の代名詞かのように振る舞っているのを見ると数年後はどのようになるのかと恐怖感がこみ上げてくる。
そんな中私は自転車で1km近く先にある書店で発売日に「違国日記⑥」を購入してきた。
①「違国日記6」
この物語を表現しようとするとき最初に出てくる言葉が「私の物語」だ。
「違国日記」を私が発見したきっかけははっきりとはわからないが、いつの間にか好きになっていた。私の家族にも紹介したいほど気に入った。
私の家族はもれなくこのまんがを気に入ったが、各々違う感想を持っていた。
一人で時間を過ごすのが好きな姉は、同じ様に孤独を愛する主人公の槙生に感情移入をしたし、実の姉との関係があまり良くない母は、同じく実の姉との関係が良くない槙生に共感していた。まったく同じ人に自分の心情を仮託しているのにその形は全然違う。
私はこの物語の中で込められている社会的な問題、疑問を丁寧に映し出している部分を見つけながら読むのが好きだ。
さて、最新巻を手に入れ、読み終わった後興奮冷めやまずtwitterで作者のヤマシタトモコさんのアカウントを見ていたら、最新刊の中で気に入ったページを3枚選んで写真を撮って、感想とともにtwitterに挙げるというキャンペーンをやっていた。
すぐ姉と3つ選んでみたがやはりまったく違う場所をまったく違う理由で選んでいた。
普段何を考えているかということを明らかにされる感覚があり、それはその人の内面を知ったようで心地良かった。そしてきっと私が変わっていくと、物語も変わるのだろう。
余談だが、この本の英語のタイトルは「Journal with witch」、韓国語は「다른 나라의 일기(違う国の日記)」と表されるらしい。言葉によってこの本に対してのスポットの当て方が違うことが面白かった。
②呼称問題
7月末から姉と一緒に暮らし始めた。大学に入学するために姉が家を出て以来だ。(数えてみたら10年!!)
話は変わるが、最近私は今まで使っていた、身体に染み付いた呼称を変えていこうと意識している。特に苦労しているのが「旦那さん or ご主人」と「奥さん」問題だ。
自分の配偶者であれば「夫」「妻」で事なきを得るが、他人を前にして、もしくは他人のパートナーを呼ぶときは夫や妻と呼ぶのは失礼に当たることが多く、他人との同意がなければ旦那さんや奥さんに頼らざる得ない。
さて、一緒に暮らし始めた2週間目。姉が毎週書いている読書レポ(私たち家族の一週間の楽しみ→
を一番乗りに読む。一緒に暮らしているゆえだ。その中で姉が尊敬している作家さんの本について紹介されており、その作家さんの「旦那さん」について書かれている部分に言及していたのだが、旦那さんやご主人とは書かずに「夫さん」と書かれていた。
呼称問題はただが言葉ではあるが、その人の考えを顕著に表すものだと思っている。この言葉を使っているのだからこの人はこの問題に関心がある人だと認識することも出来る。
しかし主人、奥さん問題は慣習が物を言う部分がありなかなか他人との合意がなければそれ以外を使うことは難しかったりする。そんな中「夫さん」と書かれたことは私が言ってきたことが何かに繋がったことに対する嬉しさと、夫さんってなんか良いなという嬉しさが編み込まれてただ頬が緩むばかりだった。
呼称問題にも通じるの話で、引っ越しの関係で住民票を一人暮らしの場所から移転するために書類を書いていたとき、「世帯主」という言葉が何度も出てきた。紙を記入するたびに家父長制によって制度に組み込まれていることをいやでも実感した。
また書類仕事を片付けていく中で家族に書類を送付する必要が出てきたので封筒に住所と宛名を書いていた。母と父両方に関連するので宛名は「姓 父の名前」その横に母の名前を書くのが普通だが逆の「姓 母の名前」の横に父の名前を書いてみた。自分の家族だから出来る芸当ではあるがどこかに違和感を残したくてそう書いた。父や母は気づくだろうか。
③「三つ編み」レティシア・コロンバニ
新しく暮らし始めた市町村の図書館は、なぜか海外文学のコーナーが充実しており話題作ももれなく揃っており、これもそのうちの一つだ。(チョンセランの「屋上で会いましょう」をみつけたときはたまげた。他にもヴィジュアル本もとにかく充実している印象だ)
この本の存在はよく知っていた。なぜなら私が好きな人、和田彩花さんが推薦していた本だったからだ。「82年生まれ、キム・ジヨン」が代表されるように最近フェミニズムを描いた海外文学が注目を受けている。
わたしは読書した後に感想を書くのが苦手だ。のこしておきたい気持ちはあるのだが言葉にしてしまうと曖昧さと混沌さが混ざってどこまでも広がっていた海がどこかで借りてきた言葉によって壊れてしまい、もう二度とその混沌を思い出すことができなくなるからだ。だから今勉強している韓国語で書いてみたらすこぶるこれが良い。韓国語で書くと違う海を形成していくようで、もともとの海を壊すことはない。
最初はインドのスミタの置かれた状況が過酷すぎてスミタの部分はつらすぎて直視が出来なかった。またカナダのサラも逆に自分の中では恵まれているように見えたし、生活の不安を感じずに過ごしているのが羨ましいと思ってしまい、なかなか彼女たちの物語に集中することが出来なかった。しかし長い髪から徐々にみつあみが編まれていく過程を、その過程を描くことなく描かれていたように思えた。まるで髪を編んだ感触が手に残っているようだった。この感触が消えないようにという気持ちが韓国語で感想を書くことに至ったのだろう。
フェミニズムを知れば知るほどその構造に置かれていることは、暗い海が暗くそしてどこまでも広がっていることを自分で知りに行く行為ににている。特に私は自分が「女性」であるためその構造的にやりようのない状況に置かれることも容易に想像でき直視できないことは度々ある。この本もまだ私にはスミタの部分はまともに読めていない。知らないほうがいいと言うけどやっぱり知らないことには始まらないと思うときもあれば、そういってもこれを受け止めるのは無理ということもある。
1人の話ではなく、3人の話というのが希望や光だけの「物語」ではなく、私たちの生活の延長線上から離れなかったのだと思う
毎回違和感を列挙する形から外れているような感覚に陥るが、日記という形態はなんとか死守している。
「考えろ」
違国日記の6巻で最後のほうで主人公、槙生が同居している姪の朝にいう言葉だ。
朝はそんなに考えて「槙生ちゃんしんどくない?」と聞かれると、槙生は「かもね、でも、せっかくなら苦しんで生きたいでしょ」と答える。
全然わからないけど、ちょっとわかる。