「死」を消費する
哀しい夜だった。
また1人、才能ある人が命を絶った。
人が亡くなると、その衝撃と慟哭、虚しさという感情が織り交ぜられる。
有名人が亡くなると、多くの人がその感情に突き動かされ、自分の語彙を持って哀悼の意を表する。
今回のようなソルリ、そしておそらく大多数の人が想起したであろうジョンヒョンの死は、才能ある若人が自ら命を絶ったという点でより多くの人に衝撃を与えた。
そして人々は多くのことを推察し、自らの言葉を尽くす。
よりドラマティックに、より自らの哀しみが伝わるように言葉を紡ぎ出す。
しかし、一方で彼、彼女の死はまるで悲劇の映画「泣ける映画」と銘打たれた映画を見ているような錯覚を感じる。
現実の出来事に感じる感情が、その悲劇性について誰かに感想を述べたり、ノートに書き留める行為の延長線上のように感じてしまう。
彼女らの「死」はまるで物語の中の「死」と同じように多くの人に消費され、「死」を物語として消化してしまう。
私はこのニュースを受け取った時友人にメッセージを送った。
その衝撃を共有した。
そしてお互い言葉を使い、その死をいたんだ。
そして私は、彼女の死を消費した。
そして今も消費している。
人の死に対して言葉は「無」である。
どんな言葉を使ってもどんな感情が生まれようとも、人の「死」の現実はなくならない。
映画のように、「物語」でもない。
どんな言葉をかけようとも彼女の人生はもう2度とこの世には戻らない。
そして感情を言葉にすればするほど、私たちは彼女の死さえも消費してしまうのではないかという葛藤が生まれる。
そして今もその葛藤と、罪悪感の上に立っている。
芸能人と、それを享受するものたち。
その歪な関係性の上に私はいる。
一度立ち止まって考えたいけど、そんな時間は私たちに与えられず、また変わらず時間は流れる。
でもこの違和感、そして虚無感は忘れないでいたい。
そしてこの問いに対して考えることをやめないでいたい。
Rest in Peace