バカいってる

これはエポックだ

違和感日記⑤

違和感日記を書き続けてもう3ヶ月以上になる。さぁ書こうと思い立つたびに、自分が書いた日記を読み返す。まだ4回しか書いてないのかと思うと同時に、もう4回も書いたのかと思うから時間の感覚というのは奇妙だ。

 

○将棋

 

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王位戦第2局 終局後

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3月のライオン」から始まった自分の将棋ブームはとどまることを知らず、2週間たった今も継続中である。

 

棋士が自身のプライドと情熱をかけたぶつかり合いと、将棋に負けたときの言葉にならない「絶望」の姿は言葉を集めても集めてもそれを超えてくる姿だった。そして将棋というある種特殊な世界で、息を大きく吸い、生きている棋士の人々を観るのが映画を見ているのと同じ感覚だった。

 

一方で将棋の世界は、社会の一部分を濃密に凝縮しており、自分たちの世界を客観視する手がかりになる。特にジェンダーの観点から見れば、女性の棋士が存在してないということから様々なものが見えてくる。

女流棋士と呼ばれる女性の棋士もいるが、「棋士」と、女流棋士は全く違う過程を歩んでいるため、「棋士」の過程を経てプロになった女性はまだいない)

将棋界において、女流棋士は「棋士」ではなく、将棋界に存在するためには「女性性」を強く打ち出さなければならない。人間である前に「女性」が先に来る。そして「女性アナウンサー」のような立ち位置を求められる。

しかし、それは将棋の実力が根拠とされているので、「正当なものであり、議論の余地がない」ように思える。しかし、少し目線を変えればそもそもスタートラインが違う。

女性が棋士になれない背景には、将棋=男性のものという認識から生まれる環境が強いという前提が大きく影響している可能性がある。なぜ将棋を指し続けられるのか。それは...という構造が見えれば見える景色が異なってくる。

表面上では理論がきちんと成立しているが、すこし違う視線から見ればそもそもスタートラインが違う。どこかで見た構図である。

 

○変わった

私の大好きな雑誌、『FUDGE』。

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友人の影響で好きになった。『FUDGE』に載っているファッションが自分の価値観にぴったりで古本屋で安く打っていたら必ず確保していた。

コロナによって、古本屋に行く機会が減ったせいで『FUDGE』とは随分疎遠になっていたが、最近久々に雑誌を手にとった。

しかし、ページをめくるたびにまるで自分のために作られていたのではないかと思う誌面だったのが、「かわいいけど....」という誌面になっていた。

何度見ても。私が好きそうなファッションを見ても。

つわりのときにスーパーにいっても食材がねんどのようにしか見えなかったということを聞いたことがあるが、きっとそんな感覚だろう。

たった3ヶ月で何が??『FUDGE』で幸せになれたのに、人生の楽しみが一つ減ったではないか!!

理由は後からやってきた。『FUDGE』のモデルはほぼ、「白人」のモデルなのだ。

BLACK LIVES  MATTERに関連した動画を見ていて反射的に「黒人」の人を「美」として捉えることは少なく、私の中で異質なものであったこと気づかされた。私のなかで「美」の姿は「白人」の姿であり「黒人」は少し異なっていた。白人の姿が美の基準とされていることを『FUDGE』は誌面でありありと見せつけているように思え、距離ができた。

「葉子」という友人がいる。名前の由来を聞くと「美」とか、そういう規範がない名前を付けたかったから何も規範がない「葉」の文字を使ったという。

『美しい』という感覚は自分で構築することも出来るのだ、と思うと同時に「美」は変わるのだと思った。

 

古本屋繋がりでもう一つ。

 

古本屋の棚はジャンルが多岐に渡り、かつ世間とは隔絶された感覚が強い。今の世間を読み取りマーケティングに基づいた出版社が出した本が並ぶ新刊書店と違って、古本屋には30年前の本と、3ヶ月前の本が隣同士に置いてあったりする。アルゴリズムで私たちのほしいものが先取りされる今、自分が変化する前に世界が変わり、世界の変化は自分の変化より早い。

古本屋の本棚を見ていると同じ棚を見ていたはずだけれども、自分の内面は変わっているのでまったく前は見向きもしなかった本がお宝のように出現してくる。

その瞬間が快感なのだ。

 

○引っ越し

引っ越しをしたので、自分の本を選抜しなければならなくなった。

どれもどれも私が選んできた本なので相当苦労したし、ダンボールに積まれていく本を見て、あの本たちが死んでいくような錯覚に陥った。本棚に並べられずにダンボールに押し込まれ誰の目に止まらない本は「本」の体をなしていない。

(捨てられない、買取にださないのにはある事情があり、将来は私のもとに戻ってくる)

 

 

「違和感を感じないときのほうが楽だった。」という言葉は友人が、ある会話でぽろっとこぼした言葉だった。よくフェミニズムを知らないときのほうが生きるの楽だった。ともよく聞く。

確かにそういう部分もあるなぁと思っていたし、知らないほうが幸せだということもあるが最近は「知る」ほうが良い側面を感じることが多い。