バカいってる

これはエポックだ

「みんな同じ人間なんです」―「She is×和田彩花〜自分で選ぶこと、決めること〜」に参加して―後編

この記事は「She is×和田彩花〜自分で選ぶこと、決めること〜」のイベントレポの後編です。

前編はこちら

touasuabab224.hatenablog.com

 

 

 

話は最近公開された、ソロ曲「Une Idole」にも話が及んだ。


【和田彩花】 Une idole 【MUSIC VIDEO】

 

この曲の歌詞は、フランス語と日本語で書かれている。

フランス語になったのは、あやちょの軽い提案がそのまま採用になってしまったという。

「(フランス語の)発音が苦手なのに、歌うともっと発音が悪くなっちゃう。なのに、歌うことになっちゃった」と笑いながら言っていた。

 

そしてこの曲に込めた思いをいくつか羅列して説明している中で「偶像崇拝をしないで」というメッセージが込められていることを説明してくれた。改めて歌詞を調べてみると

letras2.com

 

Je suis une idole(私はアイドルですが)

Et pas n'importe qui(他の誰でもない)

Je ne vis pas ma vie pour vous (君のために人生生きていない)不器用な世界観

 

Jes suis une idole(私はアイドルですが)

Mais pas d'idolatrie(偶像礼拝なんてない)

Meme si cette idee change parfois,je suis et serai toujous une idol

(こんな考えは変わる時もあるけど、いつまでもアイドルだから)

他にもこの曲に込めた想いを言葉を尽くして説明してくれていたのだけども、私にとって偶像礼拝という言葉が 強く、重く頭に残った。並列した言葉のうちの1つでしかなかったけれど、「偶像崇拝」は、ずっと頭の中をぐるぐると回っていた。

 

参加者が自分を形成した本を紹介するイベントでは、参加者三者三様の本が持ち寄られた。

ジャンルは多岐にわたり、ジェンダーについての本、往年の名作文学、絵本、写真集まであった。

あやちょは、彼女が敬愛する画家「エドゥアール・マネ」の画集を持ってきていた。

 

参加者が本を紹介するたびに、あやちょは真摯にコメントをしてくれた。

ある参加者に対するコメントに対して、あやちょの断言は印象深かった。

 

「人間はみんな平等です。」

 

あやちょの最初のトーク部分でもこの言葉と同じことを全く別の流れの中で発していた。

「芸能人も一般人もなんら変わりません。おんなじ人です。」

 

複数回同じ趣旨の発言を、全く違う文脈の中で繰り返されたことで私は強く印象に残ったと同時に、先ほど「Une Idole」のメッセージの1つの「偶像崇拝」という言葉が急に結びついて出現してきた。

 

<「偶像崇拝」への仮定>

 

あやちょの「Mais pas d'idolatrie(偶像崇拝なんてない)」のメッセージの根幹には「人間はみな平等である」という彼女の考えが強く存在しているのではないかという仮定を立て、トークショー全体を通してとくと考えた

 

(あくまでこれは私の解釈であって、あやちょがそのイベントで以下の趣旨の発言をしたわけではない。)

 

ここでの文章での「偶像崇拝」は、いわゆる「アイドル」を偶像として崇拝する構図のことである。

辞書には「アイドル」は以下のように書いている。

 

1.偶像

2.崇拝される人や物

3.あこがれの的。熱狂的なファンを持つ人。

デジタル大辞泉より)

デジタル大辞泉の定義からもアイドルというものは、あこがれの的として「ファン」にして崇拝される立場にある=「神」と「信者」の関係のような偶像崇拝的な構造があるということがわかる。(ただし、アイドルは神ではない)

 

アイドルが偶像崇拝の対象になることはここでわかった。

ではなぜこの「偶像崇拝」が「人間は皆平等である」というあやちょの言葉につながるのだろうか。

 

それは、”ある人に「アイドル」という属性を与えた瞬間に、「アイドル」というその人は人間であるということが社会の中から欠落する現象”が一定数存在するからだ。

つまり、その人は人間である前に「アイドル」という属性が先立ち、そしてその属性には社会的制約が内外からかかるようになる。

 

  

 アイドルには規約がとにかく多い。そしてそれは、「恋愛禁止」のようにある種、明文化されたものから、不文律で明文化されておらず一般人には知り得ない内面化されたものが多い。

  今回のトークショーに参加するまで、私はリップシーンで髪を振り乱すことが禁止であったことは知らなかったし、写真で大きな口で笑っていけないことも知らなかった。

  つまり、これは「アイドルは顔を売るものである」という前提が社会であることから、顔を髪の毛で隠すということに対してNoとしたのだ。

 

  そして、大きな口を開けることも同じ背景を持つだろう。「アイドルはこういう表情をする」という前提があり「大きな口を開けること、眉間にしわを寄せること」はそこから逸脱するものだった。

 

  しかも、これははっきりと「アイドルは大きく口を開けない方がいい」ということがファンの中で共通認識としてあるというよりは、制作側がそれを読み取り、もしくは先回りして生まれた規則である。

  制作陣の意図など知ることない私たちは、その前提に対して私たちは当たり前すぎて気づかない。気づいたとしても「アイドルだから当たり前」の考え方に回収されてしまうことが多い。

  そこで逸脱され、そして「逸脱したこと」に気づいて、やっとその規則は意識に植え付けられる。改善することもあるが、逸脱に対してのバッシングがより規範性を強めることは少なくない。

 

この「アイドルは〇〇であるべき」という規範から外れた時に大きなバッシングが生まれる実例は今まででもたくさんある。

アンジュルムだと、かっさー(笠原桃奈)の”赤リップ事件”が思い浮かぶ。

www.polka8dot.com

  当時14歳であったかっさーに対しメイクが濃いという意見があったので、それに対し直しますとブログで告白した。それがきっかけで様々な議論が巻き起こった。

 その後、あやちょがかっさーにたいし、「好きなリップを塗ってほしい」と堂々と支持を表明した。(他のメンバーも、できる形で支持をした)

 

 アイドルである、14歳の年少の女性である、属性に見合った「そうあるべき」像があり、それに逸脱することがバッシングにつながる現実が如実に明らかになった例だとと思う。

 

   しかし、この規則が「アイドル」たらしめているもので、構造となり、絶対的なものになると、構造に組み込まれたアイドルは構造上の偶像以前に「人」という当たり前のことを忘れさせてしまうのではないか。この構造こそが「偶像崇拝」に当たるものだと考える。

 

偶像崇拝をしないで

「芸能人も一般人もなんら変わりません。おんなじ人です。」

 

という言葉には、自分の意思ではないところで「偶像崇拝」の構造に組み込まれ、その構造の中で「人」であることを忘れられた世界にいたあやちょの思いが強く組み込まれているのではないだろうかと考えてしまうのだ。

 

 私はあやちょの生き方に触れ、感動し、あやちょのように生きたい。

今私はその思いが強くある。しかしあやちょも1人の人間であることを忘れてはいけないと思う。彼女に対し、このように自分の思考を再構築しすぎて「こうあってほしい」という形があることも上記の言葉でハッとさせられた。芸能人であろうとも、一人の人間として接する前提は当たり前すぎて抜け落ちてしまう。だからこそ強く意識していきたい。

 

以上が「She is×和田彩花〜自分で選ぶこと、決めること〜」で私の感じたことです。

最後になってしまいましたが、このような機会をくださった皆様本当にありがとうございました。

 

追記

レポが「She is」で掲載されました!是非是非!みなさまみてください

sheishere.jp